20230517 追記
「時空一体」感は、何となく「悟り」に近いような気がします。ちなみに筆者の日常的な生活信条(身上・心情)は「身辺清浄(悔いも恨みも無い、怒りも悲しみも無い)」感なのですが、そういうことに通じるような気もします。
<追記>土光敏夫氏のことば
事前のシミュレーションを徹底して行うこと。よし、これなら必ずできると確信が持てるまで。そしてそのことを組織に示し、皆が同じ気持ちで必ずできる、何としてもやり切ろうという気持ちに持っていく。
1.湯川秀樹氏のことば
「過去を言うように未来を言う(言え)」というのは、日本人初のノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹氏が弟子の科学者たちに言った言葉だそうです。理論物理学とはまさにそうした科学なのだろうと推察します。
2.ビスマルクのことば
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」…戦乱の時代の一国のリーダーたる者は、「歴史を言うように未来を言う」人でないと務まらないでしょう。チャーチル氏も「歴史に学び、歴史を創る」リーダーであったはずです。
3.「やって見なければ分からない」 では「計画」にはならない。
「人事」という仕事において、人の一生を左右してしまうほどのことを自らの経験に学んでいる場合ではないし、「計画」という仕事において、「やって見なければ分からない」のは、実は「計画」とは言わないのかも知れません。
<追記>時空一体に観れば…
… いささか「哲学的」ですが、時空一体に観れば観えないことや解けないことは「ない」と言ってもいいのではないか、と思うのです。(「悩んだときは、見上げてごらん、夜の星を…」です?。)
1.見の眼、観の眼(宮本武蔵)
物理的・客観的に、思いを入れずものごとを率直に正確に見る眼が必要であると同時に、それがいったいどういうもので何を意味し、どんな価値があるのかという評価や判断を持って観ることも大事だと思います。
2.寄れば悲劇、引けば喜劇(チャップリン)
「カメラを寄せて見れば悲劇だが、引いて観れば喜劇だ」という意味の言葉を言ったそうです。同じものごとでも見る人の視野や視点によって見え方が違い、些末なことに一喜一憂することもまた愛すべき人生だという意味でしょう。
3.愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(ビスマルク)
自分だけの狭い時空のことだけでなく、歴史上の人たちの経験や訓えに学びなさいと言う意味でしょう。(ただし、都合よく解釈された歴史でなく、生の歴史に学びたい。)
<追記>
「歴史に学ぶ」とは…歴史的に観れば…つまり、当時の時間的・空間的・人間的・社会的・文化的…いろいろな、当時の制約的・限定的・部分的な全状況のもとで、行われた判断と選択が「誤りだった」と「後から言う」こと?
「あれはやむを得なかった」でなく「あれは誤りだった」…当時の全状況においてもなお当事者が「別の判断と選択をすべきであり、それが自分の立場においても十分に現実的に可能だった」と教えてくれるなら多いに「学び」たい…
4.時空一体に観れば…
筆者は少し哲学ぶって「広い宇宙を見上げるように、時空一体に観るならば、観えないものごとはないし、分からないものごとはないし、解けないものごとはない」と思っています。
①「時が解決する」ということは「本当」だから
どんな問題でも「やがては時が解決する」というのは、筆者自身の実感でもあります。どんなに争い合う相手でも、時が来れば赦せる。人に対して肯定的であればあるほど、その時がくるのは早いと思います。
②「宇宙」は時空一体だから(宇宙を観るようにものごとを観れば良いから)
我々の眼に映る宇宙は、必ずもその瞬間の状態ではない。そこには過去が見える。つまり時間と空間の両軸で我々は宇宙を見ている。ものごとを空間軸と時間軸で見れば解も観えるはずです。
<追記>_ウクライナに歴史と現実の同時進行を見る思いがする
ああ「また」だ…人間はあれほど歴史に学んだはずなのに、また現実として誤りを繰り返している…「正義」の名のもとに「戦争」や「迫害」や「破壊」や「殺戮」が行われている…
<追記>_歴史はアカデミックよりストリート
歴史はアカデミック(後付けの歴史解釈学)でもあると同時に(よりむしろ)、もっと実践的なストリート(大道、大道芸人の大道です。)として、現在と将来に向けて、学び、生かすべきものだと思います。
たとえば「明治維新」だって、「太平洋戦争」だって、当時の人たちが「どうにかこうにか何とかして生き延びるために選んできたのっぴきならない道(まさにストリート)」だったんだと思うのです。
道端(まさにストリート)の草を食んででも生き残ってきた人たち、道半ばで斃れた人たちの、生きる意地や知恵やエネルギーこそが「歴史」であり、そこから学ぶべきものだったはずです…
<追記>
自分では到底できもしないような一般的で抽象的なあるべき論に陥ることは、謙虚に「歴史に学ぶ」ということとは全く真逆の態度だと思います。「歴史」とはもっとのっぴきならない中での必死の選択であったはずです。
1.賢者は歴史に学ぶ…
「賢者は歴史に学ぶ(愚者は経験に学ぶ)」という歴史上の偉人の言葉がありますが、それはさすがに自らが歴史を創り出すほどの見識と力量のあった偉人ならではの言葉であったろうと思います。
歴史に学ぶ上では「第一次史料を重んじる」べきであることも、そのとおりだと思いますが、その第一次史料でさえ、本人によって書き換えられることが多く、「歴史に学ぶ」と言ってもそう簡単なことではなさそうです。
2.歴史は決して「ひとつ」ではない…
例えば先の太平洋戦争(大東亜戦争)の歴史は、「一部軍部の暴走」として語られることが多いと思うのですが、「アジアを欧米の植民地支配から解放する」という意義があったと指摘する識者も少なくありません。
現在の社会や国家の現実と同じように、歴史上の社会や国家が「ひとつ」の史実や史料や観点から語り尽くせるはずもなく、「歴史に学ぶ」と言っても、それはおそらく「現在に学ぶ」ことよりよほど難しいだろうと思います。
3.何のために「歴史に学ぶ」のか?
また、「歴史に学ぶ」ことの意義は、当時の判断や選択や行動が「誤っていた(~すべきだった)」などと後から評論家のように言うことではなく、自分自身が現実の中でどういう判断と選択と行動を行うかだと思います。
人間の判断や選択や行動は、おそらく、「完全に合理的」などではありえず、当時のあらゆる状況や条件においては、常に「制限的で部分的に合理的」であったのだろうと思います。
4.おそらく歴史上の誤りは少なくとも部分的には繰り返されるだろう…
戦争(武力の行使)によって(国家間・民族間の紛争を)解決するという判断と選択と行動を二度と決してしない、という「約束」は、未だに世界の(実は我が国の)標準にさえなっていません。
おそらく自分(たち)は、今後、自身が現実に国家間・民族間の紛争に巻き込まれたときに、自己保全的・自己肯定的な言い訳や逃げ口上を唱えながら、武力の行使という判断と選択と行動を再びしてしまうのかも知れません。
5.実は未だほとんど歴史に学んでいない…
自分(たち)自身の歴史上の判断と選択と行動は、既に行なってきてしまっているのかも知れません。武力の行使による紛争可決という選択を、自分(たち)自身は、真に歴史に学ぶことなく、今までにすでに行っている…。
「戦争」だけでなく、「貧富」という歴史にも、自分(たち)は、まだほとんど学べていない。「地球温暖化」という歴史にも学ばないまま判断と選択と行動を行い、後世からその「誤り」を学ばれてしまうのでしょうか…
<追記>_人事は…いまだに多くを経験に学んでしまっている
人事マネジメントはいくらかは歴史に学び、科学(行動科学や社会心理学…)に学ぶところが多いとは思うのですが、やはり多くはそれぞれの経験に学ぶことが現実には多いように思います。