20240907 追記
リスペクトトレーニングって結局…例えば、
・「和顔愛語」
・「悪く思わず、悪く言わず」
ということだと覆います。
20231227 追記
この稿の参考記事…
https://www.peacemind.co.jp/service/training/respect_training
20230516 追記
どのような人間関係の場合でも、お互いに「リスペクト」を感じないなら「早めにお別れするほうが良い」とさえ、筆者は思います。友人や家族の場合でも。ビジネスパートナーの場合はなおさらです。
「人は、自分がリスペクトしない相手の言うことは聴いていないものだなあ」と感じます。相手の言うことを先ず良く聴くのがコミュニケーションの基本だとしたら、つまりリスペクトが無いとコミュニケーションが成り立たない、ということです。
<以下原文>
1.其れ、恕か
孔子が第一の高弟に「人間にとって、それをなくしては人間でなくなるほど大切なことは何ですか?」と問われて、「其れ恕か」(「恕(じょ)」=簡単に言えば人間的な「思いやり」)と答えたそうです。
子貢問ひて曰く、 「一言(いちげん)にして以て 終身之を行ふ可き者有りや」 子曰く、 「其れ恕か、己の欲せざる所は、人に施すこと勿 れ」(論語)。「恕」とは要するに「思いやり」だというのが一般的な解釈です。
「恕」という言葉は、「宥恕」や「寛恕」ということ、つまり正否や理非だけではない、もっと深く広い豊かな人間的な言動や態度の選択、およびそのもととなる考え方や処し方や人間性を言っているのだろうと思います。
2.人間相互の尊厳と親和(リスペクト)
人間相互の関係をより良く保つ上で「終身之を行ふ可き」ところは何でしょうか。筆者なら「相互の尊厳と親和(リスペクト)」と答えます。マズローのいう「尊厳」および「親和」という言葉に「相互の」を冠したものです。
人間にとって「それ無しには存立できない」ほど重要なことはマズローの言う通り「生存・安全・親和・尊厳・実現」だとしても、それらは「自己」単独ではなく「相互」でしか成り立たない(「己所不欲、勿施於人」)はずです。
「人間関係が上手く行かない」という悩み事や困り事は、多くの人たちに共通する事項でしょうが、筆者自身は「相手への尊厳、相手との親和」を基本方針にして、自分の対人的な言動や態度を選択したいと思います。
<追記>見ざる聞かざる言わざる
「見ざる言わざる聞かざる」というと日光東照宮の有名な彫刻を思い浮かべるのですが、この言葉のもともとの意味は一般的な理解とは少し違うようです(筆者は次のように勝手に解釈しています)。
つまり、どんな仕事でも「自分ひとりだけで上手く行く」ような仕事はほとんど無く、「人の理解と協力を得てこそ上手く行く」と考えれば、少なくとも次のような「心がけ」は必要だろうと、筆者は思うのです。
・人の短所を見ざる。
人にはそれぞれ、他の人に見せたくない欠点も短所もあるのだから、それをわざわざ見つけ出して論う必要もない。本人が気付いている場合はなおさら、気付いていない場合でも気付いてくれるまで、見て見ぬふりをするのが良い。
・人の無知を言わず。
人にはそれぞれ、知っていることや知らないことがあって当然です。興味も関心も違うのですから。人がそれを知らないからと言って、そのことをことさら言う必要はない。お互いいに、共に知るところになれば良いのです。
・人の誹りを聞かず。
人にはそれぞれ、事情も都合もあるし、感じも思いもある。人を悪く言おうとすればきりがないのです。円満な人間関係を築こうとするなら「悪く思わず、悪く言わず」が第一だと思います。
・人の思いを拒まず。
人にはそれぞれ、見えている事実があり、それぞれの価値観もあり、考えがある。それを「否定」してかかってはどんな話も続かない。「共有」が難しくても「共存」(お互いに認知し、尊重し合う。)はできるはず。
・人の愛するところを愛する。
その人を愛されようと思うなら、その人を愛することは勿論、その人が愛するところ(その人が愛すること、その人が愛するもの、その人が愛するもの)を、その人が愛するのと同じように愛することだと思います。
・人の気付かざるを責めず。
同じことでも違いを感じる人と感じない人がいます。いわゆる「繊細な人」は、相手と自分の感覚の微細な違いにいら立つことも多いでしょう。「どうして気付いてくれないのか」と相手を責めても、自分を苦しめるだけ…。
<追記>悪く思わず、悪く言わず
1.無道人之短 無説己之長
人の短をいうこと無かれ、己の長を説くこと無かれ。人に施しては慎みて念うこと勿かれ、施しを受けては慎みて忘るること勿かれ。世誉は慕うに足らず、唯だ仁のみを紀綱と為せ。(後漢崔瑗の「座右銘」より)
2.人間関係を円満に保つ基本
人を悪く思えばきりが無く、人を悪く言えばきりが無い。自分のことを棚に上げて、まるで自分の身代わりのように、人を悪く思ったり、人を悪く言うのは、もうやめようと、心から思います。
3.相手を悪く思い、悪く言えば、その分そのまま自分に返ってくる
相手の欠点が見える、相手の至らなさが目につきやすいのは、自分にも心あたりがあるからだろう。相手の不用意や無配慮が気になるのは、自分も相手に同じようなことをしているせいかも知れない。
<追記>
それを自ら「正義」だと思って「悪事」を行っている人をただ「否定」したり「排撃」しようとするだけでは(完全に「殲滅」でもしない限り?)いつまでたっても「解決」にはならないだろうと思います。
「盗人にも三分の理」という言葉がありますが、たとえ盗人であってもそれなりのやむに已まれぬ事情があり、たとえ盗人を罰する場合でも、その「理」に耳を傾けたうえで罰するべきだ、とさえ筆者は思います。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、たとえ盗人であってもその人格を完膚なきまでに否定する(例えば「人間ではない」などという表現で)ことは、文字通り「人間性一般」への否定(リスペクトの欠如)だと思います。