1.「なぜ働くか?」を問うのは「なぜ生きるか?」を問うのと同じ
「なぜ働くか?」という問いは、「なぜ生きるか?」という問いに等しいと思います。では「なぜ生きるか?」と問われれば、「より良く生きるため生きる」としか、答えようがありません。
そして「より良く生きる」ということと「より良く働く」ということも、「より人間的に生きる」ということと「より人間的に働く」ということが同じ意味である、と言う点において同じことなのだろうと思うのです。
「より良く生きる」ことは、例えば「より自由・平和・幸福に生きる」ということでしょうし、「より良く働く」ということは、例えば「自由・平和・幸福」を実現しながら自律的・協働的・社会的に自己成長するということでしょう。
2.「労務に服して賃金を得る」だけが「より良い働き方」とは思えない
資本主義のもとでも社会主義のもとでも「労務に服して賃金を得る」ことが「働く」ことの意味であるとしたら、人間の天性や労働の本質に照らして、近現代の人間と労働は、何と不幸な状態にあるのだろうと、筆者は思います。
人間にとって労働とは、人間やその諸価値、例えば「自由・平和・幸福」という諸価値を実現するために(それは人間がより人間的に生きるために)社会的に協働し、社会的協働を通じて成長するということであるはずです。
「働き方改革」という言葉が政治的に使われていますが、「労務に服して賃金を得る」という人間と労働の関係を脱する努力をせずに、いったいどういう意味での「働き方改革」が成り立つのか、筆者には疑問です。
<前提>
この稿ではひとまず、「働く」ということを、「仕事をする」ということと同じ意味で用います。また、「労働する」ということも、これらと同じ意味で用いることします。以下の論考はいずれもその前提です。
1.「働く」ことの価値
「働く」ことの価値は何でしょうか。つまり「労働」の価値とは何かという問いです。筆者は、人間にとって、「働く」ということは、何らかの人間的・社会的価値を実現することであると思います。
つまり、働くこと(労働)の価値とは、それによって実現される何らかの人間的・社会的価値である、と思うのです。例えば「パンを作る」という仕事は、人間にとっての「生きる糧」そのものを直接的に作り出すという「仕事」です。
その価値は、人間が「食べて生きる」ことそのものです。しかし、人間がとにかく生物的に「食べて生きる」だけなら別に「パン」でなくても良い。宇宙食でも良い。「パン」そのものに、もっと文化的・社会的な価値があるはずです。
また、「人はパンのみにて生きるにあらず」です。例えば「平和・自由・幸福」という人間的・社会的価値は、「パン」とともに、人間や社会にとってかけがえのない価値です。その実現のために、現に多くの人たちが働いています。
2.「働く」ことの価値は当然に金銭に置き換えることができるのか?
「パン」という食べ物の価値や、「パンを作る」労働の価値を、金銭的価値に置き換えることが、当然にできるのでしょうか…それは、近代資本主義以降の商品経済と工場生産の中でこそようやくできるようになったのでしょう。
商品経済のもとで「使用価値(効用価値)」と「交換価値」が分離してはじめて「パン」という食べ物そのものの価値や、「パンを作る」という労働そのものの価値を、金銭的価値に置き換えることができるようになったに過ぎない…。
1個の「パン」の交換価値を、それに要した労働時間の交換価値に置きかえて、金銭的に評価する、ということは、近代資本主義以降の商品経済と工場生産の中でこそ可能となり妥当となったに過ぎないのです。
それが人間にとって良いことだったかどうか…飢える人が少なくなったという意味では良いことだったが、パンを作る労働や労働者からは、実は「パンを作る」という人間的な意味合いの多くを奪い去ってしまったかもしれない…。
近代的な工場生産の中でパンを作る労働者の労働の価値は、単にその労働者の労働力を1時間当たりいくらかの価値に置き換えられてしまっており、パンを作るという文化や歴史や喜びはとっくに捨象されてしまっているでしょう…。
3.医療分野における労働の価値
では、例えば筆者が関わっている医療の分野においては、患者や利用者の「健康や幸福」が目的価値でしょう。同時にそれは医師や看護職や技術職や補助職や事務職の労働の本質的な目的価値でしょう。
それを、近代資本主義以降の商品経済と工場生産の中でようやく可能になった、パンやパンを作る労働と同じように金銭的な価値に置き換えることは、実はそう単純にはできないし、安易にそうしてはいけないことなのかも知れません。
4.労働の価値と報酬は必ずしも一致しない
医療労働への報酬の主体は、医療従事者への労賃であり、その財源の主体は医療保険から拠出される診療報酬です。しかし、おそらくそれらは医療労働の価値(=患者・利用者の健康や幸福)とは、必ずしも一致も連動もしない。
近代的な工場生産の中でパンを作る労働者たちと同じように、単に1時間当たりいくらかの労賃の価値に置き換えることが全てではないはずです。労働の価値も、労働への報酬も、1時間いくらかの労賃が全てではないはずです。
医療分野の人事労務マネジメントの観点から言えば、診療報酬が全てではなく、1時間いくらかの労賃が全てではありません。診療報酬はほぼ常に不完全・不十分であり、老労働の対価としての労賃は、ほぼ常に不完全・不十分です。
医療に従事する労働者にとって、何が労働の価値なのかを、何が労働への報酬なのかを、もう一度しっかりと人事労務マネジメントの中核に据えなおして、「採用から退職までの人事労務マネジメント」を建て直すべきでしょう。
<参考_14の労働価値_働く人たちにとっての「労働」の価値>
ドナルド・E・スーパー(アメリカの心理学者&経営学者)氏は「仕事の重要性研究」の中で「働く価値」を14項目に整理しています。( )内は引用者の勝手な注釈です。
① 能力の活用 (自己有能感)
② 達成 (自己達成感)
③ 美的追求 (対象の完成)
④ 愛他性 (利他性)
⑤ 自律性 (自己管理)
⑥ 創造性 (独自性・独尊性)
⑦ 経済的報酬 (生活の安定、安心)
⑧ ライフスタイル(ワーク&ライフバランス、ライフの充実)
⑨ 身体的活動 (体を動かす快さ)
⑩ 社会的評価 (働く誇り)
⑪ 冒険性 (わくわく)
⑫ 社会的交流性 (親和性)
⑬ 多様性 (ワークのひろがり)
⑭ 環境 (働きやすさ)
<引用者コメント1>
☆ 上記に「⑮自己成長」を加えて考えてみてはどうでしょうか?
☆ 専門職か非専門職か、従属的な働き方かどうか、一定水準以上の報酬かどう
か、仕事をする上での成長段階、生活(ライフ)に占める仕事(ワーク)の
重み、によって「働く価値」は異なるでしょう。
<引用者コメント2>
少なくとも医療分野で働く人たちにとって、実際にはほぼ全ての働く人たちにとって、働く価値の全てが労賃に反映されているとは、到底納得できないことだろうと思います。いわば、「人は労賃のみにて働く(生きる)にあらず」です。
だからと言って労賃が「労働力の再生産に必要な最低限の水準(その日生きるにかつがつ水準)」にとどまって良いとも、剰余価値はただただ資本の自己増殖のために費やされて良い、とは誰も思わないでしょう。
多くの医療機関経営者にとっては、働く価値の全てが診療報酬(医業収入)に反映されているとは思えないでしょう。しかし、だからと言って、医療従事者への労賃の原資が診療報酬(医業収入)以外に見出せるわけではありません。