「いろんな人と一緒に働く」うえで、自分の「こころ」が折れそうな人たちには、先ずは「こころ」の健康状態を取り戻すために、「そのこと」を停止したり、「そのこと」から回避することも有効で必要だと思います。
<追記事項_20210809>
「停止」や「回避」のほかに、「昇華」という処理法をも有効です。自分の「こころ」を苛む「そのこと(その思い)」を、自分や他者に対してでなく、「対象化(絵画や音楽や文章にして描き出す)」ことです。
空間に向けて…敢えて不特定多数の第三者に向けて…という意味です。ネットでつぶやくのも良いのかもしれません。ただし、絶対に、特定の物ごとや特定の個人に向けてではなく、絵画や音楽や文章や思想に「昇華」させること…。
<追記事項_20211005>
「演技」と言うと「演技型パーソナリティ障害」を連想してしまうかも知れませんが、自分のこころを攻撃するものから自分のこころを守るためにはある程度の「演技」も必要だと筆者は思います。
たとえ表層的で一過性であっても口角を上げ、受容と共感の意味で「微笑み」の表情を浮かべてみる。それだけでも実は相手からの攻撃が和らぎ、自分のこころを守ることができるかもしれない。
もちろん、普段から「和顔愛語(穏やかな表情と優しい言葉づかい)」を習慣化して身に付けておくなら、いきなり理不尽な相手からの攻撃を受ける回数も、多少は減るかも知れません…。
<以下原文>
先ずは自分自身の「こころ」の健康を回復する…
① 自分の「こころ」への自分からの攻撃を停止または回避する。
自分のこころ ← 自分からの攻撃
「そのこと(その思い)」が自分の「こころ」をただ困らせ苦しませているだけなら、先ずは「そのこと(その思い)」に思い悩むのを一旦停止して、自分の「こころ」への攻撃を止めさせることも有効で必要だと思います。
「そのこと(その思い)」の中身をもはやあれこれ詮索しないこと。「そのこと(その思い)」の中身をひとつの「パッケージ(箱)」の中に納め入れてしまうようにして「そのこと(その思い)」を外形として認識すること。
そして、その箱に風船を付けて空中に向かって手放すように、または小舟のように川の流れに手放すようにする。ちょうど「失恋で壊れてしまったこころ」を「パッケージ(ケーキ箱)」に詰め込んで手放すのとおそらく同じ。
「そのこと(その思い)」もう「思わず・考えず・忘れる」ことです。自分の「こころ」を痛めつけてくる「そのこと(その思い)」をその攻撃の手前で止めることを「こころ」のもうひとつの動きとして意識的に行う…。
② 他者(相手)の「こころ」への自分からの攻撃を停止または回避する。
相手(他者)のこころ ← 自分からの攻撃
ただし、自分のこころへの攻撃を停止又は回避するための手段として他者(相手)のこころへの攻撃を容認することは出来ません。他者(相手)への怒りや苛立や呵責の思いは、やはり「箱に詰めて手放す」以外にない。
人事の観点からも、人は、自罰的(自責的)傾向の人と他罰的(他責的)傾向の人に大きく二分できるように見えますし、「産み」と同じように「成長」にも自他を「責める」「罰する」に似た「苦しみ」が伴うようにも感じます。
しかし、それが成長に繋がらないかも知れないと「感じた」瞬間に、「責める」ことや「罰する」ことは断然停止すべきで、おそらくそれは他者(相手)に対してはなおさらだろうと思います。
相手を責める手を止めると同時に、自分を責める手が止むかも知れません。相手を責める言葉に代えて、相手を気遣い・労わる言葉を投げかけてみたら、その瞬間にお互いに「苦しみ」から逃れ、「成長」の機会が訪れる…。
③ 自分の「こころ」への他者(相手)からの攻撃を停止または回避する。
自分のこころ ← 相手(他者)からの攻撃
「そのこと(その思い)」の原因が現存・特定の「人」である場合、その「人」との関りを外部的な力に頼ってでも停止・回避するほうが「こころ」が攻撃され壊れてしまうよりは良いと思います。
そうして停止や回避ができるなら、先ずはそうするほうが良い。例えばその「人」を無理に変えようとしたり、その「人」を攻撃したり、またはその「人」を「物」のよう見なして接する訓練をしてしまうよりはずっと良い。
自分の「こころ」を耐性や強度をもっと高めたいならコーチングやトレーニングの方法もあるでしょうし、原因となっているその「人」を改められる方法があるならそれで結構ですが…(「こころ」や「人」を壊しさえしなければ…)
自分の「こころ」や人の「こころ」を壊さず、「こころ」のもっと大きな資質や能力を引き出して育む…「其れ、恕(じょ)か」という孔子の教えが結局その究極にあるように思います。
④ 問題がもっと根源的で、他者(相手)の問題でもない場合…
自分のこころ ← 自分でも相手(他者)でもないことがらによる攻撃…
「そのこと(その思い)」が、もっと、人間である限り常に伴うこと(思い)であり、誰彼を責めることでも罰することでも無い場合…それでも常に「こころ」を苛み続けているような問題だとしたら…
ひとつには「そのこと(その思い)」自体を、そっくり肯定的に受け入れ、飲み込み、消化してしまう(…という「実感」を伴いながら「そのこと(その思い)」にとことん付き合う・向き合う)ことも必要なのかも知れません。
しかしそうした「こころ」の、「自己包摂機能」とも言うべきものは、その半面で「危険性」を秘めている、とは思います。「人間性」に反することでさえ、それは「包摂(自己肯定)」してしまう作用である、かも、知れません。