20250303 改
1.自分のこころへの自分からの攻撃を停止または回避する。
自分のこころ ← 自分からの攻撃
「そのこと(その思い)」が自分の「こころ」をただ困らせ苦しませているだけなら、先ずは「そのこと(その思い)」に思い悩むのを一旦停止して、自分の「こころ」への攻撃を止めさせることも有効で必要だと思います。
「そのこと(その思い)」の中身をもはやあれこれ詮索しないこと。「そのこと(その思い)」の中身をひとつの「パッケージ(箱)」の中に納め入れてしまうようにして「そのこと(その思い)」を外形として認識すること。
そして、その箱に風船を付けて空中に向かって手放すように、または小舟のように川の流れに手放すようにする。ちょうど「失恋で壊れてしまったこころ」を「パッケージ(ケーキ箱)」に詰め込んで手放すのとおそらく同じ。
「そのこと(その思い)」もう「思わず・考えず・忘れる」ことです。自分の「こころ」を痛めつけてくる「そのこと(その思い)」をその攻撃の手前で止めることを「こころ」のもうひとつの動きとして意識的に行う…。
2.他者(相手)のこころへの自分からの攻撃を停止または回避する。
相手(他者)のこころ ← 自分からの攻撃
ただし、自分のこころへの攻撃を停止又は回避するための手段として他者(相手)のこころへの攻撃を容認することは出来ません。他者(相手)への怒りや苛立や呵責の思いは、やはり「箱に詰めて手放す」以外にない。
人事の観点からも、人は、自罰的(自責的)傾向の人と他罰的(他責的)傾向の人に大きく二分できるように見えますし、「産み」と同じように「成長」にも自他を「責める」「罰する」に似た「苦しみ」が伴うようにも感じます。
しかし、それが成長に繋がらないかも知れないと「感じた」瞬間に、「責める」ことや「罰する」ことは断然停止すべきで、おそらくそれは他者(相手)に対してはなおさらだろうと思います。
相手を責める手を止めると同時に、自分を責める手が止むかも知れません。相手を責める言葉に代えて、相手を気遣い・労わる言葉を投げかけてみたら、その瞬間にお互いに「苦しみ」から逃れ、「成長」の機会が訪れる…。
3.自分のこころへの他者(相手)からの攻撃を停止または回避する。
自分のこころ ← 相手(他者)からの攻撃
「そのこと(その思い)」の原因が現存・特定の「人」である場合、その「人」との関りを外部的な力に頼ってでも停止・回避するほうが「こころ」が攻撃され壊れてしまうよりは良いと思います。
そうして停止や回避ができるなら、先ずはそうするほうが良い。例えばその「人」を無理に変えようとしたり、その「人」を攻撃したり、またはその「人」を「物」のよう見なして接する訓練をしてしまうよりはずっと良い。
自分の「こころ」を耐性や強度をもっと高めたいならコーチングやトレーニングの方法もあるでしょうし、原因となっているその「人」を改められる方法があるならそれで結構ですが…(「こころ」や「人」を壊しさえしなければ…)
自分の「こころ」や人の「こころ」を壊さず、「こころ」のもっと大きな資質や能力を引き出して育む…「其れ、恕(じょ)か」という孔子の教えが結局その究極にあるように思います。
(問題がもっと根源的で、他者(相手)の問題でもない場合)
自分のこころ ← 自分でも相手(他者)でもないことがらによる攻撃…
「そのこと(その思い)」が、もっと、人間である限り常に伴うこと(思い)であり、誰彼を責めることでも罰することでも無い場合…それでも常に「こころ」を苛み続けているような問題だとしたら…
ひとつには「そのこと(その思い)」自体を、そっくり肯定的に受け入れ、飲み込み、消化してしまう(…という「実感」を伴いながら「そのこと(その思い)」にとことん付き合う・向き合う)ことも必要なのかも知れません。
しかしそうした「こころ」の、「自己包摂機能」とも言うべきものは、その半面で「危険性」を秘めている、とは思います。「人間性」に反することでさえ、それは「包摂(自己肯定)」してしまう作用である、かも、知れません。