20230828 追記
1.「人」の天性は「利己的」であり「利他的」でもあると思う。
例えば「利他の人と利己の人」というように、およそ「人」を「二分化」するような議論がありますが、もちろん、「人(人間)」はそう単純に二分化できるような存在ではないだろうと思います。
それよりも「人(人間)」の中には、利他的な本性と、利己的な本性が、ともに備わっていて、そのどちらがより強くその人の言動や態度の選択に現れ出てくるかという傾向の違いというべきでしょう。
むしろそもそも人間を「類的存在」として(または「社会的存在」として)見るなら「利他的」であることこそ、人間の本質であり、天性なのかも知れません。人間にとっては、「『あなた』は『わたし』なのだ」とも思います。
いわゆる「リーダー」には、「利他的であること」を期待されるだろうとは思うのですが、それはより正確に言えば「利他的な行動の選択ができる人」という意味だろうと思います。
「働く」ということを「組織的に協働すること」として捉えるなら、「組織協働的に働く人たち」に期待されることも「利他的な行動の選択ができる」ことなのだろうと思います。
もちろんそれは、それを理解しているだけでもなく、それを唱えているだけでもなく、それを日常的に実践していることだと思います。その人の日常的な言動や態度の選択が「利他的」であるかどうかの観察と評価の問題だと思います。
2.「公の人」と「私の人」
稲盛和夫氏の言葉の中で筆者が最も大事にしている言葉のひとつは「利他の人」という言葉です。これは「人のための人であれ」という教えにも通じ、「人はこの世に人としての修行に来ただけ」という稲盛氏自身の言葉に通じます。
筆者はこれを「公の人、私の人」という自分なりの言葉に翻訳して理解し、指針としているつもりです。つまり、人として「公を重んじる人(利他の人)」であるか「私を重んじる人(利己の人)」であるかをよくよく弁えよという自戒として…
筆者は企業の「総務」や「人事」の仕事に長らく携わってきましたが、「総務」の「総」という字は「公の心をつむぐ糸」と書き、「人事」は「人(かけがえのないひとりひとりのたいせつな人)にかわかる事」なのだなあとしみじみ思います。
また、人事労務に携わる中で、いろんな人たちから依頼や相談を受けることが多いのですが、その度に、その人が「公の心」でものを考え、言っているのか、「私の心」でものを考え、言っているのかを対応上の判断基準のひとつにしています。
3.「利他的」にふるまうことができる人
例えば航空機の事故に遭遇して自己の生命が危機に瀕した場合においてさえ、人を蹴落としてでも自己の生命を維持しようとする人がいる(大多数)一方で、他者の(特に弱者の)生命を守るために自分を投げ出せる人が(ごく少数)いる。
それは必ずしも人間の後天的な「修養」によるものではなく、人間(生物?)の先天的な(人間(生物?)の脳の一部に遺伝的に引き継がれている)要素のひとつである(そうでなければ人類(生物?)は今まで存続できなかった)ように思います。
それがどちらに発揮されるかは、それぞれの個体の「資質」による。また人間の場合は後天的な「学習」や、「意思」や、ときどきの状況に応じた「判断」による、と思います。
言い換えれば「利己だけの人」や「利他だけの人」は居ない。「利己的だ」と言ってその人を否定したり切り捨てたりしてはならず、その人に本源的に備わっているはずの「利他」を引き出すことをしなければ、問題は解決しないと思います。
「ふるまう」とは、その人の感じ方や考え方や処し方の全体を言います。その意味で「人は利己的にも利他的にもふるまう」と私は思います。例えば稲盛和夫氏や中村哲氏は、きっと言行一致の「利他の人」であったに違いないとは思います。
かくいう私自身は、もちろん、きわめて卑小な「利己の人」にすぎないと自覚したり反省したりしています。結局のところ「自分がかわいい」ほうが先に立ちます。「自分が得をする」ことや「自分が楽をする」ほうが好きです。
それでもできるかぎり「相手にとっての幸せが同時に自分にとっての幸せであるような幸せ」を「人間らしい幸せ」として追求しようと、心がけて、感じ方や考え方や処し方を選択しようとしているつもりです。
たとえば経済学という社会科学は、どちらかというと「利己的」にふるまう人を「モデル」にしているように思います。特に経済現象を計量したり予測したりする場合は経済的に利己的な選択をする人を「モデル」にしているように思います。
株価もそれぞれに全く利己的な選択をする人たちがそれぞれの利益や情報や予測や意図に基づいて売り買いをすることで、まるで自然現象(洪水)のように変動(侵襲)するのだろうと思います。(株式を利他的に売買する人のモデルは別)
では人事労務マネジメントは…「人は利己的にも利他的にもふるまう」ということ(同じ場面でも何割かは利己的にふるまい、何割かは利他的にふるまう。ことと次第によりますが、それを事前にどの程度「読める」かが大事だと思います。
4.自分の手間を惜しまず、相手の手間を惜しむ
自分の手間を惜しむのは「忙しい」方なのでしょうか。忙しさのあまり、相手への視点を失ってしまうのでしょうか。または「気付かない」方なのでしょうか。「自分本位の怠け者」で相手の手間より自分の手間が惜しいだけ…?
コミュニケーションの要諦のひとつは、その「ほんのひと言」を言い添えることができるかどうか、です。チームワークの要諦のひとつは、相手や仲間のために「ほんのひと手間」をかけることができるかどうか、だと思います。
5.人間はいったいどこまで「利己的」なのか…
筆者は企業や、そこで働く若い人たちが、安易に「自己実現」という言葉を用いるのが不安で不満です。企業によっては「やりがい搾取」「自己実現搾取」の絶好の機会に映るでしょう。
「自己実現」という言葉は、よく知られたマズローの欲求五段階説からの引用だと思うのですが、マズロー自身は、「自己実現する人」として「60歳以上の、人間的にも社会的にも成熟した人」を想定したそうです。
また「自己肯定感」という言葉も心配です。「他者肯定」のない「自己肯定」は、単なる「利己主義」ではないでしょうか…。「親和の欲求」も「相互親和」なら分かるのですが、それが「自己親和」という意味なら「ぞっ」とします。
私がマズローの欲求五段階に対して感じる素朴な疑問は、「人間ってどこまで『自己』中心なのだろう?」「人間にとって生存さえ『自己』単独では成り立つはずが無いのに、『自己実現』が『自己』単独で成り立つはずがない」ということです。
そこには西洋文化と東洋文化との間の人間観の根本的な違いがあるのだろうと思います。やはりマズローの所説は「個人」や「自己」が絶対的な前提にされているようで、例えば「親和の欲求」も「自己親和の欲求」と読み替えれば納得が行きます。
ちなみにマズローは「自己実現を遂げた人間」として「60歳以上の人間」を想定していたとのことです。ですから、例えば新入社員が「自己実現したい」と言ったりするのは、志向としてとても良いことですが、いささか以上に時期尚早でしょう。
6.マズローの言う「自己」は、実は「相互」ではないのか?
マズローと言えば「欲求五段階説」で、人事労務管理の議論の多くで紹介・引用されて来ており、勿論、本稿もその例外ではないのないのですが、筆者は少し違う観点で「欲求五段階説」を自分なりに読み解いています。
⑤ 自己実現の欲求
④ 自尊の欲求
③ 親和の欲求
② 安全の欲求
① 生存の欲求
社会的(類的)存在である人間にとって、その「生存」でさえ自己単独では成り立たず、「相互」以外には成り立たないと思います。まして「安全・親和・尊厳・実現」は「自己」でなく「相互」以外には成り立つはずがないと思います。
また、「親和」より「尊厳」が上位の欲求ではなく、「相互の尊厳を前提として相互の親和がある」と思います。つまり、「生存」「安全」の上に「親和と尊厳」の欲求があるのだと思います。
さらに、「実現」とは、単に「自己実現」ではなく、「人間相互の実現」「人間的・社会的価値の実現」を言い、「人間的・社会的価値を実現すること(およびそのために成長すること)」こそが人間にとって最高位の欲求なのだと…。
そうすると、一般的に言われる「マズローの欲求五段階説」は、次のように読み替えられると思います。
第四段階の欲求:相互実現(人間的・社会的諸価値の実現)
およびそれに向けた成長への欲求
第三段階の欲求:相互尊厳および相互親和の欲求
第二段階の欲求:相互安全の欲求
第一段階の欲求:相互生存の欲求
7.組織の「人事労務管理」の視点からの「欲求五段階説」の読み取り方
(1)相互の生存や安全さえ維持できない組織は存続に値しない
極端な例でいえば「過労自殺」を生じてしまう組織や企業や職場は、もはや解体的な出直し(それこそ真の「リストラクション restruction」)以外には選択肢が無い、と少なくとも筆者は断じます。
(2)相互の親和と尊厳は組織や職場の存立要件
そもそも「組織」とは、何らかの人間的・社会的な目的の達成や価値の実現のために、さまざまな適性や能力を持つ人たちが協働する「場」であり、お互いの理解と協力なしには成り立たない「場」です。
さらにわれわれが「組織」ではなく「職場」と言う場合には、必ずしも経営合理性や目的合理性を徹底した「仕組み」でなく、そこで「共に生き、とも働く」という、もっと人間的・社会的な「場」の意味が込められているはずです。
そうした「場」が人間相互の「親和」と「尊厳」無しに成り立つはずがありません。「親和」や「尊厳」という価値の上にしか、組織的協働が成り立たず(理解も協力も得られず)持続的な「成果」や「効率」も得られないはずです。
(3)相互の目的の達成や価値実現、それに向けた相互成長こそ最大の動機付け
ドラッカーは「組織」を次のように定義しています。「共通の目的と価値」とは必ずしも経済的な価値だけではなく、例えば「平和」や「幸福」や「自由」という人間的・社会的な諸価値です。
組織とは…
① 共通の目的と価値へのコミットメントを必要とし、
② 組織とその成員が必要と機会に応じて適応し、成長し、
③ あらゆる仕事をこなす異なる技能と知識をもつ人たちから成り、
④ 自ら成し遂げるべきことを他の成員に受け入れてももらい、
⑤ 成果は常に外部にあって測定・評価・改善されなければならない
(「P.F.ドラッカー経営論集」(ダイヤモンド社)より)
人事労務管理(マネジメント)とは、組織や企業や職場に集う人間相互の生存や安全はもとより、相互の親和と尊厳のうえに、相互の目的や価値に向けた成長と協働をいかに多く豊かに引き出すかという考え方であり処し方です。
8.「自己実現」を「搾取の道具」にしないために…
マズローのいう「自己実現」とは、60歳以上の健全な人間の状態だそうです。生存や安全さえ脅やかされ、親和や尊厳さえ危うい人間の状態に、自己実現を強いることは、虚偽と悪徳に満ちた搾取以外の何ものでもありません。
「人事労務マネジメント」は「搾取の道具」ではないのか…ものごとの二側面性(両刃の剣)から言えばそうなりうることはむしろ当然で、ではどのような価値の「軸」がそこにもう一本なければならないかという問題だと思います。
ある病院の創業者の「理念」は「すべては患者様のために」でした。実はその「価値」のもとに、長時間の不払労働が行われてきました。今では「患者満足&職員満足」と言い換えていただいてるようですが…。