20230905 追記
生きることにさんざん苦しめられた末に得た思いが、「諦めること、割り切ること、逃げること、戦わないこと」だと、その人は言いました。「戦わないこと」の根底にはこんなに哀しいほどナイーブで透き通るような心があるんですね…。
20230517 追記
人間関係(信頼関係)が未成立な状態で相手(相手が感じ、思い、考え、選び、言い、行うこと)を否定してはならない、と思います。相手が「弱い立場」(例えばあまりモノを知らない、言えないなど…)である場合にはなおさらです。
20230515 追記
あらゆる人間関係において(個人レベルから国家レベルまで)、否定や対立が後を絶たないのが現実ですが、筆者には、「否定や対立」の殆どは、お互いの「交流や対話」が無い(足りない・おこたる)ところから生じるように見えます。
20230601 追記
「外国の軍事面の援助は一切不要です。陸上自衛隊の派遣は有害無益、百害あって一利なしというのが私たちの意見です。」(2008年11月5日 参議院外交防衛委員会における参考人としての、中村哲医師の発言より)
<以下原文>
1.矛盾や対立を乗り越えるのが進化
あらゆるものごとや関係において、矛盾や対立を恐れてはならないだろうと思います。矛盾や対立の無いところには成長や発展が無いだろうと思います。矛盾や対立を乗り越えてこそ、成長や発展があるのだろうと思います。
矛盾や対立を乗り越えるのは闘争だ、と言う意見があるのかも知れません。平和をもたらすのは戦争だ、と言うのと同じでしょうか。でも「平和のための戦争」を是認したり許容したり黙認したりするかぎり、人類には永遠に平和は来ないでしょう。
矛盾や対立を乗り越えるのは、闘争や戦争ではなく対話と創造だ、と言い、それを実践するのは、国際情勢の現状に鑑みてあまりに非常識的で非現実的なのでしょうか。闘争や戦争は、対話と創造を怠ってきた結果でしかないのではないですか。
2.なぜわざわざ「闘う(戦う)」と言うのか?
なぜ「闘う(闘う)」と言うのか。なぜ「働く」と言えないのでしょうか。そのほうが勇ましいからでしょうか。例えば「平和や自由や幸福のために闘う(戦う)」のは、「平和や自由や幸福のために働く」ではいけないのでしょうか。
いったい何と「闘う(戦う)」のでしょうか。圧政や差別や偏狭とでしょうか。誰と「闘う(戦う)」のでしょうか。保守や反動や独裁とでしょうか。「人」や「敵」と闘い(戦い)、打ち滅ぼすことで「平和や自由や幸福」が得られる?
少なくとも筆者には、「闘う」と言う言葉が、何か非日常的(絵空事)のような感じがしますし、自分事でなく無責任な他人事を言っているように聞こえます。排他的で独善的で、それこそ人類にとって永遠の「争い」の原因ではないでしょうか?
3.もっと日常的な、等身大の、協働を通じた目的や価値の共有と実現を…
もっと日常的で自前で当たり前で普遍的で一般的であること、日々の「働く」ということの既にそのなかにこそ、平和や自由や平等や幸福や…そうした人間的で社会的で歴史的な価値の実現が練り込まれていないと…と思うのです。
働く人たちが働くことを通じて実現しようとしている目的や価値が、個々人の安楽で豊かな私生活ではあっても…実社会では現に、もっと人間的・社会的な目的や価値の実現のために「働いて」いるひとたちが、多くおられます。
そういう人たちの「働き」を見もしない、支援も連帯もせずに、例えば「平和や自由のために闘う(戦う)」などと地に足のつかないお題目を叫び立てるのは何とも気恥ずかしい以上の危なささえ感じます。
4.交流と対話が進化につながる
歴史的に見て、文化や文明は「交流」があってこそはじめて「進化」してきたはずですし、ひとりの人間の「成長」も、他の人間との「交流」があってこそはじめて成り立つのではないか、と筆者は思います。
筆者は企業文化の大きく異なる企業どうしの合併を経験したことがあるのですが、一方にとって当たり前の日常用語や日常習慣も(たとえば挨拶の言葉や習慣でさえ)他方にとっては当たり前ではないことにあらためて気づきました。
目的観や価値観、基本的な仕事の進め方、具体的な方法論、感じ方や考え方…それぞれが違うのは、企業の合併でなくても、初めて出会う人どうしが、何か一緒に仕事をしようとする場合には同じです。
お互いの当たり前を相手に押し付けずに受け容れ合うこと、お互いの目的観や価値観、基本的な仕事の進め方、具体的な方法論、感じ方や考え方…それぞれの違いに目くじらを立てず、当否や優劣を競わず、良いとこどりすれば良い…。
追記 20210730
では、「批判」は「否定」ではないのか…確かに「全て」を肯定するなら「批判」は成り立たないでしょうから。ただし、「最初から相手に黒いペンキを塗っておいてから相手を『黒い』と批判する」という例が多いように感じます。
では、「指導・育成」には「否定」が伴わないか…その根底に「否定」があっては人は育たないでしょう。相手がどんなに未熟であり、または偏っていようが、その相手をどこまで肯定し、どこまで育成できるか、ということでしょう。
全ては肯定に値する…どこまで「肯定」できるか分からないが、先ずは「否定」を先に立てず、とことんできるところまで寛容と謙虚と尊重、つまり「肯定の意」を尽くしてみようと思います。
追記 20210630
末川博先生という昔日の高名な法学者に「戦争に(原爆に)正義も不義も無い。有無を言わさず否定すべきだ。」という趣旨の言葉があったように思います。運動論・政治論としては「その通り」だろうとは思います。
マルクスの文献に「打ち負かす」という言葉が良く使れていたり、西郷隆盛はずいぶんと「主戦主義」だったのだなあと思いますし、「革命」と「暴力」はほぼ同義だとさえ思うのですが、それが「人間の天性」にかなうものなのでしょうか?
「全ては肯定に値する」などと嘯いていては、あっというまに歴史や権力の波に飲み込まれてしまうでしょう。「人間の天性」に反することに肯定の余地を残しては決してならず、何が「人間の天性」なのかは自分自身が知っているはずだと…
自らが知る「人間の天性」に反するものでない限りにおいて(それが「人間の天性」に反することに気付くことに後れを取らない限りにおいて)どこまで「否定しない」でやれるか、やれるところまでやってみようと、筆者は思います。