20230517 追記
それを「発達障害」と言ってしまうから「解」が遠のくのだと思います。それは脳機能上の「特性」のひとつであって、正しく理解・対応すれば、より良い現実解が得られます。
<以下原文>
1.「職場の中の困った人たち」⇒「職場の中で困っている人たち」
筆者自身が今までの多くの著作の中で、職場の中でうまく適応できない人たちのことを「職場の中の困った人たち」と呼んでしまっており、「そこを何とかする」という「人事マネジメント」の対象として見てしまっていました。
しかし、今さらながら気付いた当たり前のことのひとつは、「職場の中の困った人たち」の問題は、「職場の中で困っている人たち」の問題として捉え直さない限り「解けない」のではないかということです。
たとえば「コミュニケーションがうまく取れない人たち」の問題は、「コミュニケーションがうまく取れずに困っている人たち」という本人の悩みや苦しみを、周囲が支えるというマネジメントが必要であり有効であると思うのです。
2.メンタルの問題も、発達障害の問題も…
筆者の顧問先で、職場のストレスに起因して精神疾患を発症し、労災認定を受けた事例がありましたが、本人の側に立ち、その「困りごと」を一緒に何とかしようという発想が職場にあれば、もっと違う結果になったはずです。
いわゆる「発達障害」とされる問題を抱えて、周囲と上手く協調できず、良好円満な人間関係を築けないで困っている人たち、悩み苦しんでいる人たちがいるのなら、そこを何とか支えるのが職場のマネジメントの役割でしょう。
「本人の自己認識」が不足し、周囲の「困りごと」が大きい、ということがあり、その際には「自己認識を促す」ことを筆者は「推奨」してしまっていましたが、それは実は「もっと本人を困らせろ」ということだったのかも知れません。
3.前から導くより、後ろから支える
困っている人は「どうすれば良いかわからない」で困っているのだろうと思います。自分自身が困っていてどうにもならないのだから、相手や周囲がどんなに困っているかまで思いを及ぼすのは無理でしょう。
職場の中の困った人たち=職場の中で困っている人たちの上や前からあれこれ指導することも必要でしょうが、それだけではなく、その人の後ろでその人と同じ状況や視点から、その人を支えるというスタンスが必要だと思います。
その人の背後から、その人と同じ状況や視点に立って、その人の思いや感じに周波数を合わせて、その人と同時に、その人ができるより良い思考や言動や態度の選択の幅を少しずつ広げていくことが必要でしょう。
<例:職場を困らせる(職場で困っている)未熟な人たち>
仕事をするということは、社会人として成長するということだと思います。幼児期から学童期を経て、自らの未熟性を克服しながら成長するはずなのですが、一緒に働く人たちの中にも未熟性を色濃く残したままの人が意外に多い…。
<例>
① 自分の気に入らなければ挨拶もしない?
② 自分がわからない・できない・困ったときは黙り込む?
③ 幼児的な自己中心癖に気付かない?
ア)相手の事情、感情、考えを尊重しない・できない、気付き・配慮がない
イ)相手や周囲と上手く協調できない。意思疎通・理解や協力を得にくい
ウ)ファクトとロジックに基づく合理的な言動や態度が選択できない
エ)自律性や自立性のなさ、一方で他責化や依存癖
自分自身の未熟性に早期に気付き、これを克服してきた人たちも多いのですから、「未熟性をかかえて困っている人たち」と同じ視点にたって、一緒に働く中で、自己認識を促し、自己成長支援すること以外に問題は解決しないでしょう。
<追記事項:「後ろから支える力」は「愛」なのかも知れない。>
「前から導く」力は「正義・論理・合理」でしょう。周囲から理解する力は惻隠の「情」でしょう。後ろから支える力は…中坊公平氏(前の日弁連会長)はそれを「恐怖」だと言ったそうですが、マザーテレサならそれを「愛」だと言うでしょう。
20220819 追記
これは筆者の卑近な経験ですが、あるとき、ある部下に、仕事上の失敗の原因を「理路整然(?)」と「追及」していたところ、その部下が、まさに文字通り「言葉を失う」瞬間を目のあたりにして、「追及」の手を止めたことがあります。
もしそのとき筆者が「追及」を止めなければ、その部下はきっと精神疾患に陥っていたはずです。筆者による「攻撃」が、部下が部下自身に対して行う「攻撃」に転化され、やがてその部下の「こころ」は壊れてしまっていただろうと思うのです。
また別の部下は、筆者に「私たちの幸福を壊さないようにしてください。」という言葉を残して退職しました。当時の筆者は「パフォーマンス型」のマネジメントをもって自任しているつもりでしたので、この言葉は強い反省材料になりました。
いわゆる「パワハラ」は、何ともおぞましいことのひとつですが、それは、おそらくその「被害者」から、「言葉(その人の文化・歴史・誇り・人格・幸福)を奪う」行いなのだろうと思います。
筆者の眼には、いわゆる「パワハラの訴え」が、まるでひとつの「武器」のように映ります。「言葉(文化・歴史・誇り・人格・幸福)」を奪われようとした人たちが、「それはパワハラだ」という言葉を武器に立ち上がる…。
人が「それはパワハラだ」という言葉を人に投げつけてくるのは、それがその人の精いっぱいの言葉だからなのだと思います。そのままではそれ以外の、もっと人間的で豊かな言葉を「パワハラ」という行いによって奪われてしまうと感じたから…。
「対話」とは、相手から「言葉」を奪うことでは全くなく、いかに多くの「言葉」を引き出すかだと思います。もっと人間らしく豊かな言葉を…。その人の文化や歴史や誇りや人格や幸福から発する言葉を聴き出し、共有することだと思います…。
□ 人の「言葉」を引き出すこと
□ 人の「言葉」を遮らないこと
□ 人に「言葉」を押し付けないこと
□ 人の「言葉」を使うこと
□ 人を「言葉」で抑圧したり攻撃したりしないこと
□ 人が「言葉」を失う瞬間を見逃さないこと
□ 人に「言葉」で不快感を与えないこと
□ 人を「言葉」で否定しないこと
20220903 追記
人から言葉を奪うことは、その人の自由を奪い、その人の人格を否定することにもなると思います。犯罪による処罰の場合でさえ、意に反する苦役を強いられ、自由を制限されることはあっても、人格を否定することは許されない。
たとえ犯罪者であっても、その人から言葉を奪い、自由を奪い、人格を否定していては、その人を懲らしめることさえできないのに、その人を導く(その人からより良い言動や態度を引き出す)ことは決して出来ないのだろうと思います。
20230603 追記
大江健三郎氏の言葉に「あなたはどのように苦しいのですか?」という言葉があります。相手や周囲を困らせ、それ以上に自分が困っている人達に対してかける言葉は「あなたはどのように困っているのですか?」だと思います。